プラネタリウムスピリット(14)

-リアルさの意味-
メガスターの星空はリアルですか?

とりあえず、はい、と答えてしまおう。少し自信なさげなのは、何もかもがリアルというわけではないという自覚があることと、異論もないわけではないからだ。でも、天の川の再現、星空の奥行き感、質感には絶対の自負がある。だからうなずくのだ。きっと、メガスターはリアル、世界一リアルな星空であると。

プラネタリウムの星空のリアリティを追求するならば、非常に微かな星まで省かずに投影することが望ましいことは科学的に異論の余地がない。メガスターシリーズは、欧州宇宙機関(ESA)による高精度観測衛星「HIPPARCOS(ヒッパルコス)」によって得られた現時点で最高精度の恒星データカタログ「Tycho-II」をメインデータとして採用し、12.5等星という極微の星まで再現する。もちろんこれは世界に類を見ない水準であり、星空のリアルさの追求において紛れもなく最先端にある。Guiness World Recordが、"The World's most advanced planetarium projector (世界で最も先進的なプラネタリウム投影機)"と認めた所以である。
 しかし上映するための価値は科学的正しさだけで計れない。お客に何を伝えられるか?何を与えられるか?肉眼で見えないかすかな星を追求することがお客に与えられるものは何か?その点はメガスター完成以降、長いこと自問自答していたことでもあった。しかし幾多の公開を通じて実感したことは、美しさ、感動という、科学的正しさとは別の意味で僕が思っていた以上の価値を持っているということだった。そして、スピリット5で書いた問いかけが、5年の歳月を通じて裏付けられてきたといっていい。多分に自画自賛かもしれないが、このことを堂々と誇り、胸を張りたいと思う。

ただ、そこまでして追求してきたはずの”リアルさ”の意味が、今、僕にとって揺らいでいるのだ。リアルさは重要なのだけど、何もかもがリアルであることがベストとは限らないということだ。時に、あえて現実と異なるディフォルメが必要になるということだ。それについて説明したい。

 ディフォルメの効用を強く実感したのは、4月に丸ビルで開催されたメガスターのイベントである。直径10メートルのエアドームに、本来メガスター1を使うべきところをメガスター2を投入した。周りが明るく上映時間が短い条件で、メガスター1では、お客に星空が十分見えないだろうと予測したからだ。しかし10mドームでメガスター2では星が明らかに明るすぎてしまう。文部科学省主催のイベントということもあり、少し悩んだが、見え方を優先してメガ2で行く事にした。実際投影してみて、10mドームで投影されるメガスター2の星空は異様に明るく、華やかだった。美しくはあるが、現実にはマウナケアに行こうが宇宙に行こうがありえない、リアルを通り越してしまった”スーパーリアル”の星空だった。科学的正しさに異論もあったが、興行としては非常に好評で、しかもメガスターの伝えたい宇宙の奥行きを極めて効果的に伝えることができたのだ。この経験で得られたことは、何もかも現実に忠実がベストとは限らない、誇張された表現が時に功を奏すという、考えてみればごく当たり前の教訓だった。

 プラネタリウムは星空のシミュレータであり、その発達の歴史はリアルさの追求でもあっただろう。メガスターも例外ではない。では、なぜリアルさを追求するのだろうか?その目的が明確でなければ無為な追求になってしまう。プラネタリウムの目的はさまざまだが、たとえば天文現象をわかりやすく忠実に示すためならば、惑星の運行や恒星の運行を示す座標線のたぐいが求められるだろうし、星座をわかりやすく見つけてもらうなら、星の数はほどほどがいいだろう。星の明るさを忠実に求めらるのは、視力の検査とか、星空が生物に与える影響を調べる実験とか、恒星を参照して現在位置を割り出す誘導弾の模擬実験など、極めて特殊な用途に限られると思う。いずれにしても、目的に合ってこそ、その性能が発揮できる。裏を返していえば、世のプラネタリウムは、現実の夜空では決して起きない日周運動の早回しをするは、日周運動を止めて惑星が年周運行するわ、座標線や星座絵はでるわ、最近に至っては、肉眼で見えるはずもない輝度でカラフルなオリオン星雲が迫ってくるわ、無数の銀河が輝いて見えるわ、肉眼で見えないはずの赤外やエックス線で見た星空すらカラフルに再現してしまう。ありえないこと尽くしである。つまりこれまでもプラネタリウムはある面でリアルさを追求しながら、ある面でリアルさを積極的に放棄=ディフォルメをしてきたのだ。しかしそれらすべて、誰もが認める通り、それなりの意味と目的があっての事なのだ。

これを考えると、丸ビルでの試みなどはまるで驚くに値しないことになる。暗い星まではっきり見えるようにすることで、暗順応する機会もない観客が、容易に宇宙の奥行きを実感できるようにする。そのために星空を本物より明るくする(=ディフォルメする)ことは、これまでプラネタリウムがやってきたディフォルメと本質的に何も変わることがない。だからこういう見せ方について、極端な見せ方だ、リアルじゃない、と言って目くじらを立てる必要はないのだ。

これはプラネタリウムとは何か?何のためにあるのか?どうあるべきか。という議論にもつながってくる。上述のような学術研究のための星空のシミュレーションを行うならば、確かにあらゆるリアリティが理想だろう。しかし現実のプラネタリウムはほとんどそういうことを目的にしていない。教育、娯楽といった、別の目的がほとんどだ。その見せるシチュエーションはさまざまで、自動車でいえば、バスとスポーツカーほどの開きがある。それらの様々な使い道をまとめて一般化できる存在意義など導きようがない。もちろん教育目的以外に使ってはいけないという掟など無いし、プラネタリウムがかくあるべきと定義づけることほど無意味なことはない。さまざまな目的のプラネタリウムがありえるけれど、そしてそのほとんどが、リアルであるだけでなく何らかのディフォルメが必然となっているのだ。

(言ってしまえばオシマイだが)億光年の広がりのあるものをわずか数十メートルに縮小した時点で、プラネタリウムはもともとリアルになりようがない。しょせん人間が作ったもの。にも関わらずひとがプラネタリウムを作り、それを見るのはなぜなのか?青少年に科学教育をしたい、或いはガールフレンドを口説きたい。そのために星空や宇宙という題材を使い、人が勝手に目的に応じて独断と偏見で加工し、誇張し、切り捨て、一つのカタチにしたもの。それがプラネタリウムであり、本物の星空にとうていかなわないが、本物の星空で決してできないことができる。本物の代わりでは決してない。そこには自然科学がもたらした極めて客観的かつ厳密なデータが活用されつつ、作り手の主観や叡智、価値観、目的意識がふんだんに盛り込まれている。まさしくサイエンスとアートの融合であるし、星空をモチーフにしながら様々なディフォルメや加工を施され、目的にそうように作り上げられた作品であり表現なのだ。それが、星空のリアルさを追求してきた過程を通じ、今の僕が得た結論である。

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2005年9月4日