プラネタリウムスピリット(15)

-新方式タイムマシン-

まず言っておく。
日付とタイトルだけで、エイプリールフールと思ったあなたの読みは甘い。今日であるのはたまたま偶然。エイプリルフールとは全く無関係な、実にまじめな話である。

最近、タイムマシンが欲しいと思う。本当に欲しい。別に万馬券を当てようとか、江戸時代に懐中電灯を持って行って町民に見せびらかそうとか、そんなセコい動機ではない。純粋な学術的、知的な欲求からである。そう、楽しかったあの日の出来事だけでなく、戦国時代の関が原の合戦が実際どんなだったかとか、白亜紀の大地を闊歩するティラノサウルスの姿がどんなだったか。戦国時代や恐竜時代を描いた映画が巷にあふれることからも、過去を覗き見たい人間の願望が伺える。しかし残念ながら、映画はともかく、残念ながらタイムマシンはどこにも売っていない。売っていたとしても相当に値がはるんだろうが、ヤフオクに明らかにインチキっぽいのがいくつか出ていた程度で、ホンモノらしいのはどこにもない。しかし、なければよけいほしくなる、見たくなるのが人の悲しい性。

今回の話は、そんな私たちの夢を実現する装置の新方式を考案したというまったくもってまじめで科学的な発表である。

未来に行くタイムマシンは原理的には簡単だ。そもそも我々自身が毎秒、1秒ずつ刻々と未来に向かうタイムマシンに乗っているようなものであるし、光速にきわめて近い速さで移動(準光速)すればそれを早め、まさに未来への旅行を体験することもできる。準光速で移動することは現在の我々にとっては技術的にもコスト的にも相当困難があるが、将来実現できる可能性は十分ある。少なくとも原理的には可能である。

 しかし過去へとなると話は変わる。過去に移動するタイムマシンを実現可能と主張する学者も、その理論も存在しなくはないが、専門家の間でも賛否両論である。だいたい過去に移動できたとしたら矛盾が起きる。有名な親殺しのパラドックスというやつで、過去の世界に行って自分を生む前の親を殺してしまったら、自分が存在しなくなる。SFならそういう事が起きないように取り締まるタイムパトロールなんてのが存在するが、掟破りが出ないと誰が保証できる?だから過去に戻るなんてできるわけないという話である。

しかし、ひとつの前提を替えれば話は変わる。自分が過去に戻れば確かに過去に干渉してしまうが、過去を見る、つまり過去の情報を得るだけなら、それは矛盾したことにはならない。私らがしたいのは、過去に出かけていって悪さをしたいのではなく、どんな様子だったか知りたい、つまり時空のガラス越しに覗き見たいだけ、という慎ましい願望なのだから、それなら何とかならないだろうか、と思うわけである。

 過去を見ることは論理的に全くおかしくない。というより、我々は日々それをしている。写真やビデオ撮影、そしてあらゆる記録である。我々が積み重ねている情報とはつまり過去の記録そのものである。過去の出来事をフィルムやデータに記録して後で再生することは、つまり過去を見る=タイムマシンに他ならない。なんだ、とっくにできてるじゃないかタイムマシン。

 それで納得できてしまったあなたは目的を全く理解していない。そんな煙にまいた話で終わらせようとしてもダメだ。なぜならば私たちが見たいのは戦国時代や恐竜たちのモノホンのナマ映像なのだ。そんな過去の映像を記録したビデオがあるなら見せてくれ。と言いたくなることだろう。もし、1億年前に地球に来たエイリアンがそのときの様子をビデオ撮影していて、そのテープを落としてしまっていて、そのテープが化石に埋もれて、いま出土でもすれば、見事に願望は叶う事になる。でもそれを期待するのはちょっと甘すぎるかもしれない。そんな都合のいいエイリアンがいるわけないでしょう?そういう他力本願でなく、もうすこし自主的に何か方法を考えた方法がよさそうである。

そこで私は夜空を見上げてみた。星が光っている。きれいだ。そして思い出すのだ。その星たちは、何十光年、何百光年の彼方にあって、何十年、何百年前の姿を見ているのだということを。おお、何のことはない、私たちは簡単に過去を見ることができている。とっくにできているじゃないかタイムマシン。

 それで納得できてしまったあなたは目的を全く理解していない。そんな煙にまいた話で終わらせようとしてもダメだ。なぜなら私たちが見たいのはワケのわからないよその星の過去でなく、自分たちの地球上で起きた過去の出来事なのだ。ならば、いいことを思いつく。それは鏡である。巨大な鏡を作り、それをたとえば1光年か離れた宇宙空間に置く。ぴったり地球に向けて、である。今すぐやろうとしても、技術的にもコスト的にも現実性は乏しいと思うかもしれないが、原理的には可能であり、将来実現できる可能性は十分ある。
あなたがするべきことは、あとは望遠鏡でその鏡を見るだけである。鏡には地球が映っている。その地球を出た光は鏡を往復しているから2光年を旅している、つまり2年前の地球の姿である。細かいところを拡大すれば色々な出来事も見える。たとえば200光年余りの彼方に設置した鏡を見れば、西暦1600年に起きた関が原の合戦を見ることが出来そうである。400光年彼方の地球上の合戦を鮮明に見ることのできる望遠鏡の開発はそれなりに大変そうだが、巨大な鏡を制作して1光年彼方に敷設する技術があれば造作もない(と信じたい)。

 まあこのやり方を考えつく人は多いだろう。しかしそれゆえか、大きな落とし穴がある。今この瞬間に鏡を制作したとしても、その鏡を200光年の距離に設置するには最短200年かかる。そしてその鏡を観測できるのはさらに200年後、つまり400年後になってはじめてそのタイムマシンは作動するが、そこに映るのは残念ながら関が原の戦いではなく、現代の地球、そしてこれから宇宙に打ち上げる鏡をせっせと磨くあなた自身の姿である。
つまり、鏡の制作より前の出来事を見ることはできないのだ。それでは全然意味がない。だいたい今の自分の姿を見るなら、ビデオに撮ったほうが遙かに安上がりである。

どこかに気が利く宇宙人がいて、200年以上前にちょうどいい鏡を作って宇宙に打ち上げてくれてたりしたりしないかな、などと思う。でもそんなうまい話があるわけがない。化石の中にビデオテープを探すと同然の淡い願望に過ぎない。しかし、そこでよく考えるのだ。宇宙には確かにちょうど良い鏡などないかもしれない。しかしこの世で光を反射するのは鏡だけではない。ありとあらゆる物質が大なり小なり光を反射する。反射した光を見ることだってできる。ということは?宇宙に鏡の代わりをするものは何かないだろうか?




あった。


 夜空に輝く星である。星たちは輝いているが、同時に物質であるから当然光を反射する性質もあるはずだ。ヴェガやシリウス、カノープス。これらの星はもとより、これらの星がもし惑星を従えていれば、惑星もまた光を反射するはずだ。つまり、過去の地球から放たれた光は、過去の地球に関する情報を有したまま、無限の宇宙空間に吸い込まれていく。しかしそのごく一部は、これら彼方の星に当たることだろう。そしてこれらの星によって反射されることだろう。反射された光のほとんどは、無限の宇宙空間に吸い込まれていくが、そのごく一部は、地球に戻ってきている可能性はないか?計算してみないとよくわからないが、可能性はあるような気がする。この光がごくごく微弱であろうことは想像に難しくない。まして、太陽のように轟々と輝く恒星のすさまじい光の中から、彼方の地球からのかすかな反射光を検出することなど、途方もない作業には違いない。しかしそれでも、巨大な鏡を光速で持って行くよりは簡単なような気もする。これらたとえば距離200光年のカノープスから跳ね返ってくる地球からの反射光を極超ウルトラスーパー分光器で分離して、ウルトラ奇想天外ハイパーコンピュータの力を借りて、あれやこれやと精密に解析し、その光が持っている情報を復元することができれば、そこにあなたは、正真正銘、モノホンの関が原の合戦を鑑賞できるということなのだ。

素晴らしい

どうだ、こんどこそインチキでないだろう??

この調子で、より遠くの天体を観測すれば、より過去の地球を見ることができる。こんどは望遠鏡をどこに向けようか?人類誕生の頃、50万年前の地球を見たければ、25万光年離れたマゼラン星雲に向ければいい、1億年前の恐竜を見たいなら、5000万光年離れた渦巻銀河NGC7331に向ければいい。

そう、夜空に輝く星たちこそ、歴史の証人。
星はひとときも休むことなく、すべてを見ている。
そんな星たちが確かに放つ、かすかな声を聞き分けたとき、あなたもまた、歴史の証人。
そして、立派なタイムマシンのオーナーである。


 
2006年4月1日